悪魔教会なんて名前だけを見ると、生け贄だとか呪いだとかの血なまぐさくて恐ろしい儀式を行ってる宗教に思うかもしれない。だが、2016年、結成から50周年の節目を迎えたこの団体はそういうものとは一線を画している。それは「サタニストの11のルール」を見てもらえれば分かる。
サタニストの11のルール
- 求められてもいないのに意見や忠告を与えないこと。
- 他人が嫌がるとわかるようなごたごたを話さないこと
- 他人の家に入ったら、その人に敬意を示すこと。それができないならそこへは行かないこと。
- 他人が自分の家で迷惑をかけるなら、その人を情け容赦なく扱うこと。
- 交尾の合図がない限りセックスに誘わないこと。
- こんな重荷降ろして楽になりたい、と他人が声を大にして言っているものでない限り、他人のものに手を出さないこと。
- 魔術を使って願望がうまくかなえられたときはその効力を認めること。首尾よく魔術を行使できても、その力を否定すれば、それまでに得たものを全て失ってしまう。
- 自分が被らなくても済むことに文句を言わないこと。
- 小さい子どもに危害を加えないこと。
- 自分が攻撃されたわけでも、自分で食べるわけでもない限り、他の動物を殺さないこと。
- 公道を歩くときは人に迷惑をかけないこと。自分を困らせるような人がいれば止めるよう注意すること。それでもだめなら攻撃すること。
ところどころでちょっと怖いところもあるが、基本的には非常にまともなことを言っている。どこが悪魔崇拝なのかと首をひねってしまう。
設立者のアントン・ラヴェイはいわゆる霊的な物事に不信感を持っていた。キリスト教における悪魔とは、神に反逆して堕天した天使や人間を堕落に誘う悪いものだ。しかし、この教会における悪魔は違う。教会におけるサタンの意味は「サタニズム9箇条」に示されている。
サタニズム9箇条
- サタンは禁欲ではなく放縦を象徴する。
- サタンは霊的な夢想ではなく、生ける実存を象徴する。
- サタンは偽善的な自己欺瞞ではなく、純粋な知恵を象徴する。
- サタンは恩知らずな者のために愛を無駄にすることではなく、親切にされるに値する者に親切にすることを象徴する。
- サタンは右の頬を打たれたら左の頬も向けるのではなく、仕返しをする行為を象徴する。
- サタンは精神面で他人の脛をかじる者への配慮ではなく、責任を負うべき者への責任を象徴する。
- サタンはただの動物としての人間を象徴している。『神から授かった精神と知能の発達』によって最も悪しき動物となってしまった人間という生き物は、四足動物より優れていることもあるが劣っていることの方が多いのである。
- サタンは罪と呼ばれるものすべてを象徴する。おおよそ罪とは肉体的、精神的及び感情的な満足につながるものだからである。
この教会のいうサタンは、人間を悪に誘うものではない。合理主義や人間が自然に持つ欲求の肯定なのだ。ラヴェイは人々にインパクトを与えるため、わざと「悪魔」という強い言葉を使っただけに過ぎない。実際、ラヴェイの方針はオカルトブームだった1960年代のアメリカの空気にマッチし、ポップカルチャーやサブカルチャーの関係者を中心に大いに受けた。
ただ、キリスト教の教義には当然反する。1970年代に入ると、チャールズ・マンソン事件などに影響されて激しく攻撃されるようになった。1980年代、アメリカが保守化していくと、攻撃はますます激しくなった。悪魔教会は規模を小さくせざるを得なかった。
ラヴェイは1997年に死去したが、内縁の妻ブランチ・バートンが代表を継ぎ、現在も活動は続いている。
悪魔教会は、元々多神教的な価値観をもつ日本人には受け入れられやすいような気がする。もっとも、キリスト教における悪魔というのには、キリスト教が入ってくる前に信仰されていた土着の神が姿を変えたものという側面もあるらしいので、当然といえば当然だ。
だが、「サタニズムにおける9の罪」を受け入れるのは、なかなか難しい気がする。
サタニズムにおける9の罪
- 愚鈍さ
- 虚栄
- 唯我主義
- 自己欺瞞
- 群れに従うこと
- 見通しの欠如
- 過去の正統の忘却
- 非生産的なプライド
- 美意識の欠如