女性を標的に“人間狩り”を行なった連続殺人犯 ロバート・ハンセン

連続殺人犯の犯行にはそれぞれ特徴があるのだが、ロバート・ハンセンは殺しのシチュエーションにこだわるタイプといえるだろう。彼は哀れな被害者をアラスカの荒野に放ち、まるで狩猟の獲物のように、逃げ惑う彼女らを撃ち殺したのである。

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命からがら逃げ出した少女

1983年6月13日、米国アラスカ州アンカレッジ警察に、トラック運転手から「裸足で手錠をかけられた若い女性を乗せた」との通報が入った。女性は17歳の売春婦シンディ・ポールソン。彼女は客の男に暴行を受けて監禁され、小型飛行機に乗せられてどこかへ連れ去られそうになったのを、命からがら逃げ出してきたのだと警察に話した。

その頃、アンカレッジ周辺では立て続けに女性の他殺遺体が発見されていた。シンディの証言はこれらの事件と関連があるのではないかと疑われたが、彼女が犯人だと訴えたパン屋の男は、近隣住民からも好かれる善良な人物であり、警察の取り調べでも冷静に犯行を否認した。警察は彼を信じて逮捕することはなく、むしろシンディの証言の信憑性が疑われた。

だがこの「善良な市民」ロバート・ハンセンこそ、30人以上の女性を密かに殺し続けていた連続殺人犯であった。

アンカレッジの街(Wikipediaより)

善良な市民の人間狩りゲーム

ロバート・ハンセンはアイオワ州で1939年2月15日に生まれた。幼い頃から物静かで内向的な性格であったが、学生の時はニキビや吃音が原因で周囲からいじめられていたという。そんな彼の趣味が狩猟で、日々の鬱屈を晴らすかのようにその腕を磨いた。

ロバート・ハンセン

ハイスクール卒業後、一年間陸軍予備役に就き、その後は警察の教練教官となったハンセンは、この時期に一度目の結婚をしている。

しかし、1960年、ハンセンはスクールバズのガレージへの放火で逮捕され、刑務所にいる間に職も妻も失ってしまった。さらに出所後の数年間は、窃盗の容疑で何度も逮捕されている。

1963年に再婚したハンセンは、1967年に妻と共にアラスカ州アンカレッジに移住した。パン屋を営むかたわら、趣味の狩猟では地元の記録を塗り替えるなど、ハンセンは近隣住民からも好かれ、狩猟の名手として一目置かれる存在であった。

夫妻の間には二人の子も生まれた。だがその裏で、ハンセンは売春婦を獲物に見立てた「人間狩り」ゲームを密かに始めていた。

ハンセンの狙いは主に十代の家出少女や売春婦だった。声をかけた女性を自宅などに連れ込み、暴行を加えて拘束するというのが彼の手口だった。その後、女性を連れて小型飛行機で郊外の人気のない荒野に行き、そこで女性を解放して、逃げ惑っているところを撃ち殺すのである。

この凶行は1983年10月に逮捕されるまで続いたが、その間、1977年にハンセンは窃盗容疑で逮捕されている。この時には双極性障害と診断されているが、正式な治療は受けないまま釈放されている。

たびたび犯行を止める機会がありながら野放しにされていたハンセンであったが、逮捕のきっかけとなったのはFBI捜査官のプロファイリングと間一髪逃げ出したシンディの証言だった。プロファイリングが示した吃音や女性への恨みといった犯人の特徴はハンセンと一致し、警察はついにハンセンの自宅を捜索し、隠し部屋から被害者たちの持ち物や犯行現場を記した地図、犯行に使われたライフルなどを発見したのである。

警察は4件の殺人事件については立証できたものの、ハンセンの余罪がさらに多いことは明らかだった。結局ハンセンは司法取引に応じ、17人の遺体が埋められた場所の詳細を明らかにした。うち12人は警察も把握していない事件だった。

その後、ハンセンは禁固461年の判決を受けて刑務所に収監され、2014年8月21日に75歳で死亡した。判明している被害者は17人だが、実際には30人を超えていると言われている。

なお彼の事件は2013年に『フローズン・グラウンド』のタイトルで映画化された。映画の最後には被害者たちの顔写真と名前が流れる。

参考
Wikipedia 英語版。顔写真はここから引用。
フローズン・グラウンド(Amazon)

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